2009年(平成21年) 新春レポート
メディアアートが新たなビジネスを密かに生み出しはじめている。
しかし、その流れの中には、メディアアートそのものの可能性を失わす危惧すら現れている。遂にメディアアートがビジネスに動き始めた中で、その現場で生まれつつある問題点をここで明らかにして行きたい。
文=岡田智博 クリエイティブクラスター理事長
yokohama@creativecluster.jp
メディアアートがなぜ顕在化しないのか?
「何かメディアアートを使ってプロモーションが出来ないか?」このような話が、この頃多く聞かれるようになっている。冬の風物詩として絶大な集客力を実現するイルミネーションを始め、OOH(Out Of Home Media)やデジタルサイネージを中心とする新たな広告手段が急速に広がる中で必要とされる、インスタレーション、すなわちまるでアート作品のようなスペクタクルのある、注目される表現が必要とされている。
まさにメディアアートが必要とされる環境が急激に広がり始めているのだ。
その一方で、実際にはこのような屋外や公共空間でのプロジェクトで、メディアアーティストが採用された話はほとんど聞かれていないのではないのだろうか?
しかし、このような新たな広告やエンタテイメント表現をビジネスにする人々の間では、メディアアートの作品の事例を数多く探し求めるリサーチや、展覧会やフェスティバルへの視察が活発になり始めている。いわばメディアアートが、これら新たな広告や空間づくりのためのネタもとになりつつあるのだ。そしてメディアアーティストをスルーして、メディアアートらしき表現が広がり始めている。
メディアアートはパクリのライブラリーか?
例えば、このようなことがある。
企画の参考になりそうな、ネタとなるアーティストに接触し、インタビューをし、その手法をそのまま表現に使ってしまうこと。それどころか、プレゼンまで出してもらったのに、プレゼンの結果をうやむやにした上で、全く類似の表現を使ってしまうことまであったりする。
ある今年の日本における主要なイルミネーションプロジェクトにおいて、まさに普通の人々にまで感動を起こしてきたイルミネーションベースのメディアアートの作品がそのまま作者に関係無く使われてしまったことも実際あったということだ。

また、ニューヨークを拠点に活動するテクノロジーアートグループ「グラフィティリサーチラボ」(GRL) による、レーザー光線で屋外にメッセージを描く「レーザータグ」は、日本におけるストリートカルチャーが好まれるという特殊事情からか、非営利でのデモンストレーションでのみそのノウハウを公開しているにも関わらず、人集めやハプニングのための広告ビジネスの用途として、無断活用どころかパクリが続発しており、何がオリジナルで何がフォロワーで模倣なのか分からないような野放図な状況に置かれている。
※写真は「横浜国際映像祭」に先立って、GRLの認定のもと実施された「ヨコハマEIZONE」でのレーザータグ。「横浜国際映像祭」と「ヨコハマEIZONE」は横浜市が実施している「創造都市政策」的にはつながっているが、全く人材は繋がっていないメディアイベントである。GRL は「横浜国際映像祭」の招待作家に決定している。
優秀なメディアアートの作品の多くは、実現するためにアーティストが独自の技術を開発するため、インスパイア、もとい、模倣をしたくとも実現へのアプローチが難しいものが多い、そのため、メディアアートがそのまま広告やスペクタクルに結びつくことがあまり無かった。そのようなスペクタクルをしたくとも、多くのアーティストにとっては技術面でのコストが高かったり、コスト面を乗り越えて実現したものはまさに高価なスペクタクルであり、ビジネスへの転用が難しかったのであるが、メディアテクノロジーとデバイスの普及とコストの低減によってアーティスト自身によってスペクタクルを簡単に生み出されることが可能になった今、密かなネタもととして「狙われる」ようになったのである。
常に新たな企画と驚きと感動が求められる、広告やスペースビジネスにおいて、メディアアートはネタ元でしかなく、そのネタは隠しておいたほうがいいのかもしれない。だからこそ、メディアアート的な表現を求め、急激に活用されながらも、実際にはメディアアートが実際のものとしてブームとなり、広がることが無いのであろう。
しかし、そのことは得策であるのだろうか?
もっとメディアアートが知られるようにしなければならない
デジタルテクノロジーが社会や生活の中心により一層、コミットする中で、これらから生まれるものごとを逸早く魅力的なものにするメディアアートという存在はより必要なものになる。そのようにより用いてゆかなければならないものを密かな存在とし、目立たないように押し込めてゆくことははたして得策であろうか。
目立たない存在である以上、活動できる場所は限られ、表現における量的なものが制限されてしまう。よりメディアアートをリソースとして求めるなら、もっと量的に活動が目立つようにしなければならないのではないだろうか。量的な広がりは、表現の種類を増やし、活動できるアーティストの数を増やす、そこから生まれたクリエイティブを巡る多様さは、よりメディアアートをより魅力的なものへと発展させることになるだろう。
魅力的なものへの量的かつ質的な発展は、メディアアートをビジネスに用いたい人々にもより魅力的な選択肢をもたらしてくれるとともに、顧客や消費者の理解や関心へと変わり、ビジネスを活性化することになる。
メディアアートをつくる側、広げる側も、このチャンスとその裏腹にある危機をより認識すべきであろう。今、まさに注目され、活動の幅を広げているメディアアーティストに共通するのは、創りだす作品や作業を積極的に様々なジャンルやビジネスに近い人々に伝達する努力を厭わない人々であること。今までのメディアアートとその周辺にある閉じがちな世界から、メディアアートの魅力を求めているであろう、今を生きるより多くの人々に感動してもらえるための努力が、メディアアートがこれからも発展し、生き続けるために求められているのではないのだろうか。
だからとって安易にメディアアートを使えばいいというわけでもない
だからといって、今目の前にあるメディアアートをそのまま使えばいいというわけではない。メディアアートをビジネスに使う、地域づくりに使うという動きにおいて、深く探さないでフィーチャーしたプロジェクトが多々見られる状況が続いている。これは、ネタ探しと同じように安直なこと。いずれにしても、メディアアートに触れる機会が少ないままに、メディアアート的なものが多く生み出される状況は、悪貨が良貨を駆逐するかのように残念でほかならない状況なのだ。
メディアアートに魅力を感じ、表現し、広げたいと、思う私たちや本誌の多くの読者のみなさんにとって、本当に魅力的なメディアアートとその市場を広げるために、より多くの優良なメディアアートをこのようなメディアアートを求める人々にいかに知ってもらい、適切なかたちで活用してもらえるかということが、今、まさにメディアアートが大いに広がりつつあるチャンスの中で本当の発展のために取り組まなければならないことなのである。
◇ この記事に関連して以下のレポートが筆者より著されています
「メディアアートとアートマーケット : 2009年の東京アートマーケットシーズンから考える」
http://creativecluster.jp/2009/05/tokyo-media-art-market-2009.html
